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原城跡

2024.06.18

原城跡
Remains of Hara Castle

この地域におけるキリスト教の歴史(概略)

島原半島へのキリスト教伝来は1563年にはじまったとされています。同年、大村藩主・大村純忠がイエズス会司祭コスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres 1510-1570)によって洗礼を受けました。純忠の兄で肥前有馬氏12代当主・有馬義直(義貞)(*1)は、純忠を通じてその所領に司祭を派遣するよう要請しました。

トーレスはこの要請にこたえ、同会の宣教師ルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida:1525?-1583)(*2)を派遣します。義貞が所領地に宣教師招来を望んだ背景には、ポルトガル船との交易による利があったと考えられますが、いずれにしてもこれを契機に島原、口之津地方でのキリスト教宣教がはじまりました。

島原・口之津を中心として、宣教開始から1年余りは順調に信者数が増え、島原だけで1,000人を超える人々が受洗したといいます。この地方では当時、アルメイダの他に日本人の伝道士たち数名が活動しており、島原・口之津地方は西九州における宣教の拠点だったといえるでしょう。
領主・義貞は1576年に洗礼を受けますが、この年の暮れに逝去します。そのとき領内の信者は2.000人を数えたといいます。

義貞の死後、領内では仏僧の力が増し、キリスト教の宣教は一時、頓挫します。1580年の有馬晴信の受洗以降、領民の集団改宗によって信者が増加し、再び宣教が実を結びはじめます。日野江城下には日本初のセミナリオ(初等神学校)が設立され、1582年にはこのセミナリオの一期生のなかから4名が天正遣欧使節としてローマに渡ったことはよく知られています。

時代が下り、禁教令が出された1614年以降にはこの地方にも迫害が及び、宣教師たちは長崎から追放され、宣教会士及び日本人信者たちが多数殉教しました。
これ以降、潜伏したキリシタンたちが、のちに島原・天草一揆において指導的立場にあったともいわれています。

(*1) 義直から義貞に改名
(*2) のちに司祭となった

原城の沿革

原城は1496年、有馬氏9代当主・有馬貴純によって築かれた日野江城の支城です。16世紀末期には14代当主・有馬晴信の居城として整備されています。1616年に松倉重政が島原藩初代藩主として入封すると、島原に新たな城を築くため、一国一城に従って日野江城と原城を廃城とし、島原城の築城を開始しました。

島原の各地域では、1634年から日照りによる農作物の不作と、松倉重政とその嫡子・勝家の圧政とが重なり、またキリシタンへの弾圧と迫害が厳しくおこなわれました。一方、肥後国天草では、唐津藩初代藩主・寺沢広高と嫡子・堅高の苛政とキリシタン迫害によって、領民が苦しめられていました。互いの境遇が似通っていた両地方の領民たちは蜂起し、1637年の島原・天草一揆に発展しました。原城跡にこもる一揆軍と幕府軍との戦は凄まじいもので、一揆軍は3万人を超えていたにもかかわらず、全滅させられてしまいました。

幕府軍側では松倉勝家・寺沢堅高ともに、過酷な年貢の取り立てに対する責任を問われ処分を受けました。この一件を契機に、幕府はポルトガルとの国交断絶に至ります。
島原・天草一揆の終結後、同様のことが起こらないよう、原城は徹底的に破壊され、虐殺された一揆軍の遺体は敷地内に埋められました。

「原城跡」は1938年に国の史跡に指定されました。

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